@memo

ゆるくインプット、ゆるくアウトプット

僕にとってアジャイルは哲学で宗教だった

こんにちは、asatoです。

タイトル過激かな、そんなことないかな。 アジャイルは宗教か?みたいな話、最近見なくなりましたよね?

ここ一年、アジャイル開発初めてだったり始めたての方とお話していて、なにか自分が初めてアジャイル開発を実践したときと比べて違和感を感じたことを言語化したく。

自分が始めたときのアジャイルの捉え方を思い出す

僕が初めてアジャイル開発に出会ったのは2017年でした。それまでウォーターフォールで大規模基幹システムの開発をしてまして、部署異動でユーザー向けのWebシステムとかを作るようになったころ。先輩からの指令により『アジャイルサムライ』片手にスクラムを始めました。POとして。

アジャイルサムライ』 を読んで、僕は思いました。

「あ、これは哲学で宗教だ」

すごくポジティブなことなので叩かないでください😀

アジャイルサムライ』に書かれていることは、当時の自分には全て「普通のこと」に感じたんです。人間の物語としてどれも「普通のこと」でした。だけど今までの開発では「普通ではないこと」でした。

このとき、僕は「アジャイルは宗教なんだ」と思いました。それは「これが自分達を助けてくれるものだと強く信じて、これを強く実践しなければ、何も得られない」という直感でした。

そしてインセプションデッキを実践してみたり、スクラムイベントを実践する中で「アジャイルは哲学なのかも」という考えも浮かんできました。 唯一解がまるでない質問を投げかけられ、チームでそれに答える。正解がないのだから自分たちで自分たちの答えを信じるしかない。もっと良いプロダクトをつくるには、もっといいチームになるには。自分たちで答えのない問いを作って、苦しみながらチームの答えを出していく。考えの違い、目線の違いでイライラしたり衝突したりさながら、なんか最後は謎の満足感がある。

この時の経験が価値観を揺さぶって、開発に限らず考え方・捉え方が変わったと思う。残業よりも時間内に終わらせることがカッコよくなり、マルチタスクより一つに集中した方が効果的だと感じるようになったし、稼働より価値、個人プレーからチームビルディング、色々変わった。そしてそれは今の自分にとって「よかった」と思う。

僕にとって、アジャイルが哲学で宗教だったことが今の僕を良い方向に支えてくれている。

最近感じるギャップ

現代、2022年に戻ってきた。たかが5年くらいしか違わないのでわからないけど、アジャイル開発はさらに普及しているんだと思う。そして、界隈の方々の努力もあって、「アジャイルは宗教だ!」みたいな論争もなく、ちゃんと「メソッド」として受け入れられているように感じる。PMBOK7版とか盛り上がってましたよね。アジャイル〇〇みたいなのいっぱいあるし。

なので、これからアジャイル開発を実践するぞ!という人たちもちゃんとHowを学ぼうと躍起になっている。アジャイルはどうやってプロジェクトを成功に導いてくれるのか。何をすれば成功するのか。 スクラムガイドに書いてあったからスクラムイベントの時間枠を取る。その枠で今までやってきたミーティングをする。今まで作ってきた設計書に追加でバックログをつくる。インセプションデッキを作るらしいから、ドキュメントをつくる。

メソドロジー的な側面として、すごく正しいと思う。止まっていいプロジェクトも失敗していいプロジェクトも多分ない。

でもそこに感動はないのかもなと思ってしまう。あの時自分が感じた衝撃はなんだったんだろうか。どうやったら目の前の人にもあの時の感動のような影響を受けてもらえるだろう。

アジャイルは哲学」「アジャイルは宗教」なんて今更言うつもりはないです。

でも、もし今あなたがアジャイル開発始めてみたけど、まぁこんなもんか、と感じているならば。

アジャイルは哲学で宗教なのかもよ」

とお伝えしてみたい。

殴り書きをここまで読んでくださり、ありがとうございます。